第11回杉野十佐一賞/題「 木 」
石部明選
佳作 夕空が晴れて鮟鱇吊るされる 青森県 鳴海賢治
佳作 弁護士を呼んで柿の木伐る話 東京都 松橋帆波
佳作 木はどこにあるか教育基本法 福井県 松原未湖
佳作 あきらめて中東あたり流れる木 福井県 松原未湖
佳作 まだすこし木じゃないとこが残ってる 愛知県 宮川尚子
佳作 恋人を吊るしてみたい桜の木 愛知県 丸山 進
佳作 ハンカチの四隅を張って木のかたち 青森県 堤 文月
佳作 藪からしが聖戦などを定義する 静岡県 山本トラ夫
佳作 流木が一本流れている体 宮城県 八嶋静波
佳作 斜視の家もう木ねじはとまらない 大阪府 宮本きゅういち
佳作 手がかりはところどころにある木目 埼玉県 菅野耕平
佳作 九条の国で私の木をさがす 青森県 高橋紅雨
佳作 あるはずの記念樹がなくなっている 青森県 豊島文香
佳作 木の瘤となってしまった父の声 青森県 高橋けん一
佳作 ベニア板張っただけです青い空 青森県 三浦ひとは
佳作 寸劇の木になる役でもめている 岡山県 岡田文子
佳作 負け戦ばかり机の刀傷 青森県 斎藤早苗
佳作 木を揺する弱気な僕が落ちてくる 青森県 三浦蒼鬼
佳作 止まり木は手ごわい夜にとっておく 青森県 高橋 樟
佳作 木から木へ飛び損なってジャズ喫茶 宮城県 大友逸星
佳作 杉の木よ脳梗塞を疑えよ 長野県 宮本夢実
佳作 回転木馬今日は書籍の特売日 青森県 成田 勲
佳作 柩の杢目は卑弥呼の保健室 愛媛県 中西 亜
佳作 木漏れ日にたむろしている津軽弁 青森県 成田 勲
佳作 木をやめて棒鱈になる九丁目 愛知県 中山恵子
佳作 胸の木にもぐら叩きが忍び寄る 青森県 坂本トシ
佳作 ここにいる私は桜なんだもの 宮城県 田口文世
佳作 戦争の好きな神さま桜の木 北海道 木暮健一
佳作 からだの中に偏屈な木が一本 三重県 小河柳女
佳作 木の影を踏む柔らかな時間帯 新潟県 坂井冬子
       
五客 木は繁る小半日ほど家出する 長野県 丸山健三
五客 木洩れ日の模様をつけて家族です 愛知県 宮川尚子
五客 嫌な顔されたのだろう木のくぼみ 大阪府 小池正博
五客 警棒が伸びる蒟蒻畑まで 大阪府 宮本きゅういち
五客 庭の木が笑うところを間違える 青森県 中村みのり
       
人位 歩く木が出て行く迷彩服を着て 愛知県 中山恵子
       
地位 幻を見たのでしょうと木が笑う   新潟県 坂井冬子
       
天位 この木何んの木 起立せよ 青森県 鳴海賢治

『選評』/石部 明

 私たちの生活する日常は、はたして本当の現実なのかどうか。それは誰にも分りはしない。その分らない部分を証明する手段として川柳を書く。したがって書いたものは一つのイメージに過ぎないわけで、たとえ日常的な自分や物事を写実する書き方であったとしても、そこに事実を切り取るだけではない「作者独自の捉え方」が求められるのではないか。それを書くにはやはり感性を磨くしかないと思っているのだが、これは課題吟の場合も例外ではない。「木」はイメージ化のしやすい課題だと思っていたが、寄せられた作品に目を通しながら、「木」はまた教条的、道義的、人生的な感想を託すのに便利な言葉だと思っている作者が多いことを知った。選考は伝達と共感を求めるあまり、より平面的な思いや感情に支配された作品よりも、想像できる空間の広さに基準をおいた。

特選作品
幻を見たのでしょうと木が笑う
 たとえば、そよ風の窓辺の籐椅子に座っている母が、笑みながら多感な少年を諌めている静かな情景を思い描けば、それにそのまま木の匂いが滲み、やがて微笑している一本の木の風景の瑞々しさに包まれてゆく一句。しかもその奥に不可視の森が揺れている。

歩く木が出て行く迷彩服を着て

 「杉林あるきはじめた杉から死ぬ」と折笠美秋の俳句をここに出すのはどうかと思ったが、思惟の深さと端正な視線が捉える俳句と、自由な発想によって表現された川柳の違いを考えてみたかった。「迷彩服を着て」人間になりすます「歩く木」か、あるいはもともと人間の象徴としての「歩く木」か。いずれにしろ川柳という形式のおもしろい一面がこの句にある。

この木何んの木 起立せよ

 以前流行ったテレビCMだったかの確信犯的なパクリだが、一拍おいた「起立せよ」で自分に引き寄せたあつかましさが成功している。思いや、人生観の発露という重量を求める読者には不向きかもしれないが、言葉を自由に開放し、その束縛感のなさが読み手の中で躍動しつつ、「起立せよ」にふと気づかされるものがある。そしてあのCMのメロディーが重なってくる。