(秀)れいこ・由紀子・かんえもん(佳)圭伍・ちえみ・Sin
とんかつソースこぼれたみたいな寝相やな
木下香苗(滋賀県)
ヤバい、なんも出てこない。
仕事や家のことなどで忙しくなると、一句も作れなくなることが本当によくあります。そんな状態が1カ月近く続いていた中、ありがたくも届いた大賞受賞の報。しかも、憧れの杉野十佐一賞!あまりの驚きに夕飯を作りすぎてしまいました。
40代の初めからスタートした子育てと、40代の終わりから始めた川柳。そして、50歳の誕生日を目前にいただいた、この大きなプレゼント。まだぽつぽつとしか句を作れない未熟者ですが、これからも川柳とともに歩みます。どこまでも自由で、自分の中のかっこ悪さが宝となる川柳の世界が大好きです。ありがとうございました。
準 賞(11点)
(秀)圭伍・れいこ・ちえみ(佳)由紀子・Sin
マチュピチュになんて相応しいくちびる
八上桐子(兵庫県)
特選に選ばせていただいた掲句。なんかすごくキュート。でも、わかるようでわからない。「冷やし中華始めます」みたいなノリで始められるのは「可愛い手相」なんである。手相って始めるもんなの?そもそも、可愛い手相ってなに?と悩みつつ「可愛い」という概念のあいまいさについて考えさせられた。以前、SNSで「石破っちかわいい」とかいうポストを見てギョッとしたことがあった。だれかの「可愛い」はだれかの「キモイ」なのだ。そう思ったとたん、ぼんやりとしていたキュートさのしっぽを捕まえらたように思った。「この秋に」が効いているのだ。秋になる前にさまざまなことをくぐりぬけてきたのだろうことが伝わってくる。
秀逸の5句である。
「とんかつソースこぼれみたいな」なんて直喩は、作者以外はぜったい思いつかないだろう。どんなんだよ。だって、ほぼ液体だよ。無防備にもほどがある。だから、見てる人の「やな」という語尾に愛を感じるのだ。
マチュピチュの句は音の楽しさで選んだ。あたまの中でピンクの唇が「まちゅぴちゅ」と動くさまがスローで再現されて、しばしぼーっとした。
相似形の句の青春性みたいなものも外せなかった。「青」がすこし類型的にも思えるけれど、青じゃないと、このさわやかなエロスっぽさも出せないように思う。
「炎上中」の句はほんとに燃えてるのか、それともSNSの炎上なのか。私は後者で読んだ。イマドキは阿吽象まで炎上するのか、あんな強そうで怖そうなのに。とか、で、「あ」の方は似た立場なのに無事という。そんなところもイマドキ感が半端ない。
「相棒の耳」はバカバカしすぎるところがいい。相棒にいつも「耳にタコ」って言われるんでしょうね。しれっと皮肉ってるところ、好きでした。
川柳のつくり方に問答がある。今回の十佐一賞応募作品にも多く見られた。どんな問いをして、どんな答えを引き出すか。それはいかに上手にフィクションを創り出すかということである。
人に相談することは難しい。でも、相談したらよかったと後悔することもあるし、相談してもどうしようもなかったこともある。「相談」の微妙さをまず提示し、想定外の「卵が孵るかも」と、日常をちょうどいい塩梅に揺さぶっている。
上位に「相談」が並び、最後までどちらの句にしようかと迷ったが、問答の妙と展開のはぐらかし方があり、語り口に芸があるこの句を特選にした。
「相談」と「玉蜀黍のひげ」を繋いでいる「というより」は「AというよりはむしろBだ」というように使われ、このような使い方あまりしない。コトがいつのまにかモノになっている。一見、話は繋がっているように見せかけて、すっと外す。「相談」をひとまず横に置いて、なぜだか「玉蜀黍のひげ」に着地する。その素早さに余裕を感じた。
〈海辺まですべっていった相撲取り〉の海の青と髷の黒の色使い、〈とんかつソースこぼれたみたいな寝相〉の発見、〈勝てないわ相手はホタルなんだもの〉の相手がホタルという意外性、〈人相はうなぎの上に似てました〉のとぼけ方などユーモアと愛嬌を持って届けられている。
「海辺」「相撲取り」・「とんかつソース」「寝相」・「相手」「ホタル」・「人相」「うなぎの上」と、一見ミスマッチのような取り合わせが、絵になり、意味を繋いでいる。しかし、一般の言語規範に収まっているかのように見せかけてはいるが、決しておとなしく収まってはいない。散文的な意味をうまく利用して、話しかけるようなリズムで句を身近に感じさせ、句姿も楽々としている。
同じものを見ても、同じことをしても、その感触は人それぞれ違う。人間を客観的に観察すると結構おかしいのだとあらためて思った。
今回の選は今までになく難しかったように思う。
〈勝てないわ相手はホタルなんだもの〉に最後まで悩んだ。はじめは秀逸にとっていたがどうしても〈じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子〉が気になる。パロディとも本歌取りともとれるが、これをどのように受けとめたらいいのか迷った。結果、秀逸を外して佳作に入れた。採らないという選択があったのに、そして「勝てないわ」には「じゃんけん」が透けて見えたのに、ホタルの短い生命の輝きに勝てないとも言っているような気がした。ついホタルという存在に負けてしまった。
一方、〈さ迷ってアリスは相撲部屋にいる〉の大胆さに驚いた。児童文学で有名な『不思議の国のアリス』を下敷きに、穴に落ちたアリスが相撲部屋に辿り着くという発想は、題詠だから出会ったのだと思う。ともすると、題詠は雑詠より低く見られる傾向があるが、この作品は題詠の瞬発力を生かしていると感じた。アリスは相撲部屋でどうするのだろう?
むくむくと大きくなって相撲を取るのか、ちゃんこ鍋を食べるのか、相撲力士にどんなだじゃれをふっかけるのか、わくわくさせられ、続きを読まされているようだった。
秀逸1のミョウガでもショウガでもない相手役とは何だろう、他の薬味を唱えられるかぎり言ってみたが、結論はでなかった。作者にも結論は出ていないのではなかろうか。まるでクイズの問題のような作品である。
秀逸2のいかにもさっぱりとした清々しい人に相談したらどうにかなるかもしれない。
秀逸3は相撲取りの巨体では走っていくより滑っていった方が早い。そしてどんな巨体でも海はぷっかりと浮かばせてくれる。ぷっかりと浮いた様にユーモアがある。
秀逸4のマチュピチュと言うときの「チュ」の唇がとんがっていておもしろいのだが、つぶやいてみると以外にスムーズにはいかない。一列に並ばせて、「さあマチュピチュと言ってごらん」、さて、ふさわしい唇に会えるだろうか。
秀逸5は楽しい、それに加えて哀感もある。私たちはみな、ガラガラポンで生まれたようなもので、しょうがないな、雨が降ったら相合い傘で行くか。また実際今、出てきたお目当てのガラガラポングッズを手に喜んで雨の中を帰って行く姿がユーモラスだ。
題のせいなのかどうなのか、古臭い方向にいったり抽象的になったりで、魅力的に感じる句が少なかった。漢字の一字題で句作するには、①その字が入っている語を選ぶ、あるいは、その字から湧くイメージをできるだけ具体的にする過程があり、その後で、②句作に入る、という二段階が必要だが、一段階目で終わってしまっている句、というか句以前の言葉が多かった。そのハードルがちゃんと越えられた句を選べていたら幸いである。
秀逸5「もう鶴の相談は聞かないだろう」は、比喩的にではなく、イメージとしてのあの細長い鶴の形姿を思い浮かべて読み、よいと思った。「鶴の一声」の慣用句を絡めてしまうとつまらない読みになりそう。
秀逸4「マチュピチュになんて相応しいくちびる」は、最初は安易な気がしたが、「マチュピチュ」と発音して繰り返しくちびるに乗せてみると楽しいような、恥ずかしいようなで、外しづらい句になってしまった。上手くしてやられた感じ。
秀逸3「こころなし右手の手相うすくなり」は古くさくなりがちな「手相」の句の中で、言い回しは古風ながらもベタベタした意味を外していて(特に「右」である根拠が分からない、など)、句の印象が薄いのがよかった。
秀逸2「宣伝相に小松菜のゲップする」は、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの名前を思い浮かべて読むと少しダジャレっぽいのだが、そのぐらいの軽さが現状のフェイク・ニュースが幅を利かし、ナチスのさらにパロディのような政治が行われる現在にふさわしい気がする。
秀逸1「仕方なくイヤホンを分け合う白衣」は写実句として読んだ。「イヤホン」が生み出す距離感と「白衣」が指定する特定のコンテクストに、具体的な状況が分からないながら、今の労働現場のリアリティが表れている。
特選「骨格をあわせてむらさきの絵の具」には、抽象的ではなく、具象画より実体や現実感を与える抽象画、画家の名前をあげるとアンフォルメルやアール・ブリュットの先導者であるデュビュッフェの絵画に近い印象を受けた。句の言葉に沿って読み直すと、「骨格をあわせて」は二人(以上)の人物が互いの輪郭が溶け合い、骨と骨が触れ合い、絡み合うまで一体になった状態だと読みたい。そこから出てくるのが「むらさきの絵の具」だという。紫は美しいが汎用性はない色だろう。「絵の具」という何かを表現するための道具でありながら、その色のかたまりでしかないまま残りそうだ。性的なものにも感情的なものにも簡単に要約されない関係のありようをこの句は留めていると思う。「相」の字は使われていないが、この字がもつ極相を表した句として特選とした。
とんかつソースのこぼれと寝相の見事なマッチング。そして自分の寝相を思いかえしてみれば、思わず納得してしまった。
玉蜀黍のひげは女性そのもの。ヒゲはのびていきオシベから花粉を受けて受精するとのこと。相談はそのうち変な方向になりがち。狙っているのか狙われているのか。玉蜀黍のひげにやられた。
生きている化石と呼ばれているメタセコイア。長く生きて大きな木は、悩みを何でも聴いてくれそう。メタセコイアを見つけたところに拍手。
心臓と寝相の組み合わせ。しかもホルマリン漬け。この発想は途方もなく笑える。ありえない話しだが…絵が浮かんでしまった。頭の柔らかさに脱帽。
渡り切るが心に刺さった。そうだよね、百面相じゃなきゃ世の中渡りきれません。溌剌とした決意を感じさせてくれた。
口語体の句はわたしの好み。浅そうで、もしかしたら深いと思わせてくれる所が好きだ。この句の、ホタルを勝てない相手としたところに惹かれた。ホタルは自力で発光する生き物。弱々しい光だがニンゲンを癒してくれる。もしそんな人がいたら、受け入れてしまいそう。でも決して愛してはいけない。作者の悶々とした心模様が伝わる。
私は普段からゴミの分別をしっかりとし、車はハイブリッド車に乗り、買い物へはエコバッグを持っていく。環境への配慮はしているほうだと自負しているのだが、この特選句を読み通り過ぎた瞬間、自分の中にある違和感で目が止まってしまった。
(森が相席だと?)
言われてみれば、至極真っ当なことを言っている。森は人間の所有物ではない。ただ、どこかで私は無意識に(相席は嫌だ)と思っている。作者の意図かどうかはわからないが、最後の「なんですよ」と不快感を露わにするところが人間の傲慢さ、身勝手さを提示し、上五の問いと答えを敢えて噛み合わない組み合わせにすることで、さらに人間の自分勝手さにブーストをかけている。石川啄木の短歌「人と言う人の心に一人ずつ囚人がいて嘆く悲しさ」のように、作者の「囚人」部分と、私の「囚人」部分が共鳴した作品だった。
色相環を椅子取りゲームのように見立て、黄色の部分に座った人が負けという。まるで、「カイジ」や「イカゲーム」のようなサバイバルゲームを想起させる。そして、そのゲームの主催者は「黄色」に座る人が負けるという設定にしている。なぜ、主催者は「黄色」を負けにしたのだろう。あらゆる色がある色相環で「黄色」に座るような陽キャを心から憎んでいるとか、「黄色」の色が表す「幸福」なようなものを憎んでいるのか。主人公になったとして、自分ならどの色に座るだろうか。頭の中で架空の物語がどんどん進んでいく。出来れば、攻略法を見つけ出したい。
本来であれば、手相は自分の基本的な性格や才能、運勢などを読み取ってもらうもの。その手相に対して内緒にしていることがあるという。実はそんなことは手相側もお見通しなのに、どうしても手相に対しマウントをとりたい人間の滑稽さが愛おしい。
抽象型の作品の中ではこれを上位にとった。ハトは平和の象徴。「ハトがいる景色」=「平和な場所」とストレートに読み取り、そこに埋める「手相」という変数には「運勢」を入れてみる。戦地に生きる人がハトの描かれた風景画に、自分の手相を当て何かを望むような時間、そんな映画のワンシーンが私の頭に流れた。
ある相談室のシンプルな描写。ただこの相談室は、悩みを抱える相談者の心を癒そうとする花も、相談中に涙を拭いたティッシュを捨てるゴミ箱もない。どうせ、この人たちは真摯に相談に乗る気がないんでしょという、「相談室」という偽善に対する強烈な怒りを感じた。
「ボブ・ディラン」を使用したということは「権力者に対する主張」のような共通イメージを読者に与えたいのだろう。作者が年齢を重ねて、より現実的で妥協的な判断を重ねるようになってしまったことを、相性が合わなくなったとして、ボブ・ディランのせいにする責任転嫁の可笑しさが、時間が経つにつれジワってきた作品だった。